理性を磨く手段としての外国語学習、学問、資格、勉強の楽しみを語る

仕事相手の人柄を見抜け

私の翻訳家人生の中で最も苦い思い出をお話ししよう。出版が延々と遅れた挙句、出版中止になった事件である。

その編集者とは3度目のおつきあいだった。

1度目は翻訳書の依頼だった。緊急出版したいから超特急で仕上げてくれと頼まれたので、それを信じ切った私は身を粉にして奮闘努力した。1日16時間労働を繰り返し、締め切りを厳守した。息もつけないほどの忙しさだった。

ところが出版は延期に延期が重なり、結局、出版されたのは当初の予定より1年も遅れたのである。編集者にとっては出版時期が遅れることなぞ痛くも痒くもないだろうが、緊急出版になることを信じて大急ぎで翻訳した私からすれば、あれほど急がせておきながら、なぜそんなに遅れるのかと腹立たしくも思った。当然、印税の支払いも1年遅れるわけであるから腹立たしく思うのも無理はないだろう。

2度目は著書の依頼だった。これも緊急出版したいから超特急でやってくれと頼まれたのだった。私はこのときも緊急出版されるものだと信じ切った。であるからまたまた身を粉にして奮闘努力した。ところがこれまた延期である。1ヶ月延期、2ヶ月延期、3ヶ月延期…。そうしてこの本も当初の予定より1年も遅れた。

噂によく聞くが、作家や翻訳家が締め切りを守らないことは日常茶飯事のようである。締め切りに原稿があがってこなければ編集者が困ることは誰にでも分かるだろう。本を出そうにも原稿がなければ何の作業もできないからだ。それを回避するためにも編集者としては、できるだけたくさんの原稿を手元に置いておきたいのだろう。だから、早め早めに原稿をあげるように言うのだ。しかし、緊急出版する、緊急出版する、といって大急ぎで仕事をさせておきながら延々と1年も出版を待たせるのはいかがなものか。

その後、その編集者から3冊目の依頼があった。翻訳書の依頼だった。これも緊急出版したいから超特急で仕上げてくれないかという。私は、また1年待たされることになるのではないかと思ったので、失礼だとは思ったが「そんなに緊急に出版しなければならない理由はあるのですか」と尋ねた。するとその編集者は「4月に出版したほうが売れやすいのだ、だから超特急でお願いできないか」と頼んできた。

異例中の異例だが、翻訳料を前払いするという。前払いで翻訳料を貰えるというのは当時の私にとっては魅力的だった。金銭欲に溺れてはならないとは思うが、お金に困っていた私が、こういう異例中の異例ともいえるオファーをされれば食いついてもおかしくはない。冷静に考える余裕などなかった私はすぐに引き受けることにしたのだった。

引き受けた私は1日16時間の翻訳作業を続けた。クリスマスも大晦日も正月も続けた。1日の休みもなかった。こうして私は翻訳原稿を1月末に提出し、4月の出版を楽しみに待った。

ところが3月になっても4月になってもその編集者から何の連絡もなかった。こちらから連絡してみると「ちょっと遅れている」という返事。やがて5月になり6月になった。それでも編集者から何の連絡もなかった。またこちらから連絡してみると「ちょっと遅れている」という返事。こういうことが延々と繰り返された。

私が「なんでそんなに遅れているんですか」と理由を聞くと、逆ギレしたのか「あの翻訳料は特急料金込みの値段だったんだよ」と言う。私は出版時期が遅れている理由は何かと尋ねているだけで、翻訳料が特急料金込みの値段だったのか否かなど聞いていない。なのにそういう口答えをしてきたのだ。もうこの時点でこの編集者とはもう長くは付き合えないかもしれないなと思うようになってきた。

その年の暮れになった。業を煮やした私は編集者に電話をかけてみるとその本は出版中止になったと言い出した。どうやら原著者側と口論になって交渉が決裂したらしい。しかし私に対する謝罪は一切なく、一貫して「自分は悪くない、原著者側が悪い」と主張するだけであった。しかし出版契約書を出してもらっていなかった私は訳書の出版はあきらめざるを得なかった。翻訳料だけでも前払いしてもらっていたのがせめてもの救いだったといえよう。

今から思い直してみれば、2度目までの仕事は引き受けたことは間違いではなかったが、3度目の仕事は引き受けるべきではなかった。2度目まででその編集者の人柄を見抜いておくべきだったのだ。翻訳料を前払いで貰えるという誘惑に負けてしまったのが私の落ち度だったような気がする。

どんな仕事についてもいえることだが、特に大きな仕事を引き受ける場合、相手の人柄を見抜くことは重要だ。目先の欲におぼれてトラブルになったら、そちらのほうが大変だ。

PAGETOP
Copyright © 知は力:名言 All Rights Reserved.
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.