理性を磨く手段としての外国語学習、学問、資格、勉強の楽しみを語る

社内一の英語の使い手

我が翻訳部は、とにかく人の出入りは激しかった。

私が入社して2年目のころ、50代半ばの東北大出身の男性がグループ企業から派遣される形で入社してきて、社内ナンバー2になった。そしてこの人が翻訳部のナンバー2にもなった。

ナンバー1は京大卒の社長兼翻訳部長。

その東北大出身の男性は、グループ企業内で「ナンバー1の英語の使い手」として評判だった。海外に長年滞在していたこともあり、ネイティブと間違えるほどの流暢な英語をしゃべった。本人も「ナンバー1の英語の使い手」を自認した。それはその男性の口ぶりでもわかった。

ある日、翻訳部にパートタイムのイギリス人校正者を雇うこととなったのだが、そのため英文の契約書を用意しなければならなくなった。

当然のこと、その「ナンバー1の英語の使い手」である男性が英文契約書を作成することになったが、彼が英文の契約書のひな形を作成した後、私が内容をチェックすることとなった。

彼は私にこういった。

「英文の契約書を作成したんだがね、これでいいかチェックしてくれたまえ。良かったら、これでサインを交わすから」

私がチェックしてみると、どうしてもひっかかるところがあった。それは次の点だった。

「残業した場合の時給は、基本の時給の130%増しで支払う」という趣旨の英文が入っていたのだ。

何度読み返しても、そうとしか解釈できない。もしもこれでサインをしてしまったら、それが最後、残業代は今後ずっと130%増しで払わなければならなくなってしまう…。これはいくらなんでも阻止しなければ。

私にチェックを依頼されているので、私が何も言わずに通過させてしまったら、私にも責任がかぶさってくる。これは大変だ。

そこで私は恐る恐る彼にこう言った。

「チェックさせていただいたのですが、たしかに素晴らしい英語になっていると思います。本当に素晴らしいと思います。ただ、一点ですね、ここの残業代に関する記載ですが、この表現だと、残業代は30%増しではなく、130%増しで支払われるのかという誤解が生じる可能性があるのではないかと思いまして…」

するとその男性は、カッとなってこう反論した。30歳近く若い、しかも留学経験すらない私が指摘したのが気に入らなかったのだろう。

「君は私の書く英語にケチをつけるのか? 私が書いた英語が間違っているとでも言いたいのか? そもそも、だれが考えたって、残業代が基本給の130%増しだなんてありえないことだよ。常識で分かることだろう、そんなこと!」

「ええ、それはそうなんですけど、相手はイギリス人ですし、この契約書にこう書かれてあって、これでサインしてしまうと、誤解が生じてはいけないかなぁと思いまして」

「大丈夫だよ、大丈夫、誤解なんか生じないよ。だれが残業代を130%増しで払うんだよ。誰が考えても30%増しだってわかるだろうが」

こういう風にその男性は私にチェックを頼んでおきながら、私が疑問を呈すると激高したのでした。

念のために私はそのイギリス人にその英文契約書を渡して、英語としてどう読めるのか聞いてみました。

例えば、その人の時給が2000円だったとして、残業代は30%増しの2600円で支払われると思うか、それとも4600円で支払われると思うか、と具体例を出して尋ねてみました。すると案の定、そのイギリス人、その表記でいえば、4600円がもらえるということになる、と言います。

これは大変です。いったんサインをしてしまったら最後、ずっと残業代を130%増して払わなければならなくなる…。しかし、東北大出身のその男性は自分の英文が間違っていることを認めたくない。

私は心を鬼にしてもう一度だけ言いました。

「イギリス人にも聞いてみましたけど、やっぱり彼も130%増して支払われると解釈しているみたいなんですけど」

「君はまだそんなこと言っているのか。けしからん。そんな細かいことそんなに気になるかな、君はちょっとおかしいよ」

私はその男性を納得させるのを諦めました。

いろいろ葛藤しましたが、その男性にいくら言っても聞く耳を持たないし、これ以上、私が指摘すると、さらに激高するのは目に見えていましたので、その後こっそり社長にだけは「この契約書でサインをすると残業代を130%増しで払わなければならなくなると思います、イギリス人もそう解釈しています。どういう契約書にするかは社長にお任せします」ということを伝えておきました。

数日後、実際にそのイギリス人が交わした契約書を見てみると、残業代の箇所の英語表記は変更されていたのでした(笑)。

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