理性を磨く手段としての外国語学習、学問、資格、勉強の楽しみを語る

私の生涯教育

私は6つの大学を卒業し、6つの異なる分野(経済学、言語学、工学、哲学、法学、商学)の学位を取得している。だが自分のことを博学だとは思ったことはないし、むしろ知らないことが多いことに日々驚かされている。そして今後も謙虚な気持ちで学問を続けて行きたいと思っている。

その理由は学問をすることで視野が広がり、自分が磨かれ、最終的に幸せに近づけると思っているからだ。一方、仕事一本で頑張っていると、どうしても価値観が狭まり、落とし穴に陥るリスクが高まると思うのだ。そして視野を広げることは幸せをつかむ上で効果的な方法の一つだと信じている。逆に学問をしないことは目隠しをしたまま道路を歩くほど危険なことだと痛感している。

いつ頃からそう思うようになったのか。

私は最初の大学を22才で卒業し就職したが、その後30歳で会社を辞め、英国の大学院に留学した。世間的に言えば、大学院まで出ていれば高学歴の部類に属するだろう。しかし大学院で勉強する内容はお金儲けに直接結びつかないことが多いから、大学院を出た頃の私はそれ以上学問を続けることに興味を失った。当時の私は文筆と翻訳で力を発揮し、実績を作ると同時にお金儲けをしたいと考えていた。つまり作品を生み出すこと、そしてそれによってお金を稼ぐことが唯一絶対の価値観だった。それに結びつかないことをやっても何にもならないとさえ感じていた。

幸か不幸か、帰国後2年で私は専業の文筆家・翻訳家として食べていけるようになった。当時の私は出版社から仕事の依頼があればどんな条件でもすべて引き受けていたから、次々と自分の名前で作品を生み出すことができた。そうこうしているうちに私は60冊近い著書・翻訳書を出すに至った。といえば、それなりの成功を収めていると思う人もいるかも知れない。しかし私はその過程で何度となく出版社とトラブルになり精神がボロボロになって行った。

okaneなぜそんなことになったのか。それは私も出版社も視野が狭すぎたからだと思っている。平たく言えば私も出版社も自分のことしか考えていなかったのだ。私が自分の作品を生み出すこととお金を稼ぐことだけに価値を見いだしていたのと同じように、出版社はお金儲けしか関心がなかった。私自身が自分のことしか考えていなかったのであるから出版社を非難するつもりは毛頭無いが、お金儲けしか考えていない編集者が多く、たびたび失望させられていたのは事実である。

では、なぜ狭い価値観にしがみついては幸せになれないのか。先ほども述べたが、出版社が考えていることは一にも二にも金である。つまり、いかにして売れる本を出すか、いかにして文筆家にお金が流れないようにするかが最大の関心事になっている。しかしそのような狭い価値観に従って働いているとどのようなことになるか。例えば、編集者は常にベストセラーランキングや新聞の広告に目を通し、「今どのような本が売れているか」を調べる。それで世の中のトレンドが把握できると思っているのだろう。そしてベストセラー本の真似を始める。タイトルを真似る、内容を真似る、表紙のデザインを真似る、本の作りを真似る、ベストセラーを出した著者に第二弾を書かせたがる…ということが起きる。ただ、この程度のことはむしろ当たり前のことであり非難には当たらない。

だが、それが行きすぎるとどうなるか。本の内容を度外視してベストセラー本のタイトルに真似たタイトルにする、畑違いの著者にベストセラー本に似た内容のものを書かせようとしたりする、ということが起きる。しかしそれでもまだ序の口である。酷い場合は、著者と二人三脚で本を仕上げておきながら、出版の直前に「売れそうにない」という理由で出版を勝手に中止する。私自身、そのような出版社側の身勝手な理由で、出版直前になった本を出版中止にさせられたことが6回ある。半年ないし10ヶ月の間、フルタイムで取り組んだ作品が、出版直前に出版中止にさせられるのは、赤子を身ごもった女性が出産の直前に堕胎させられるほどのショッキングな出来事である。さらに一冊の本の原稿を仕上げさせておいて、出版直前になってから、有名人の名前で出したいと言ってくることもある。やっていいことと悪いことの区別がつかなくなってしまっているのだ。

では出版社の都合で出版が中止になったとき、編集者は何をやるか。素直に自己の非を認めて誠実な対応をしてくるか。答えはノーである。まず彼らがやるのは徹底した自己弁護である。要するに「悪いのは自分ではない」と言いはるのだ。そして「出版契約そのものが成立していなかった」だの「作品のクオリティが低すぎた」だのといった責任転嫁を始める。あの手この手をつかって立場の弱い文筆家・翻訳家を泣き寝入りさせようとするわけである。彼らが一度でも倫理学を真剣に学んだことがあれば、編集者も文筆家・翻訳家も一心同体であることが理解できると思うのだが、倫理学など学んだことなどないのか、卑怯な態度を取る。

文筆家・翻訳家は文章執筆あるいは翻訳という点では優れた能力を持ってはいても、法的知識が十分ある人は多くはない。したがって出版社側から圧力をかけられて泣き寝入りをすることもある。しかし多くの文筆家・翻訳家が泣き寝入りをすれば、出版社はそれが当たり前だと思うようになる。まさに悪しき慣習として定着してしまう。

私自身、印税や原稿料をカットされて泣き寝入りしたことが何度かあるが、ある日、これ以上泣き寝入りすることは悪い慣習が定着するのを助長させるだけであり、出版業界全体にとっても良くないことだと思うに至った。そしてその後は徹底的に抗議する決心をした。実際、それ以降、トラブルが生じるたびに弁護士に依頼して和解に持ち込んだが、ケースによっては弁護士費用のほうが高くつくということもあった。

やがて私は某大学の法学部に入学した。トラブルがあったら弁護士に頼らずに本人訴訟ができるようなるためである。奇しくも、ちょうどそのころ、某出版社とトラブルになった。もちろん穏便にすませられるものなら穏便にすましたかったのだが、その出版社は私が法律の素人だとタカをくくっていたのか不誠実な態度をとり続け、誠実に話し合うと約束していたにも関わらず、出版社は調停を3回連続で欠席し、意図的に調停を不調にした。出版社としては「訴訟を起こせるなら起こしてみろ、弁護士費用が高くつくから訴訟も起こすことはできまい」とでも思っていたのであろう。そこで私は本人訴訟を起こした。相手はまさか私が本人訴訟を起こすとは思ってもいなかったのだろう。驚くことに、訴状を出してから数日後、相手は実力行使に出てきた。毎日のように私の自宅にアポイント無しでやってきては「訴訟を取り下げろ」とわめき散らかした。恐喝に近かった。しかし、相手は調停を意図的に不調にする輩である。まともな話が通用する相手ではない。訴訟は取り下げなかった。

saibansyoやがて口頭弁論が始まった。相手が和解を強く希望していたから、すぐに和解に向けた話ができたはずだったが、驚くことに、相手は次から次へと嘘八百を並べ立てたため、延々と口頭弁論が続いた。相手側の弁護士2名は2名とも一流国立大卒のエリートであったが、倫理学を勉強したとは限らない。法律には詳しいだろうが、何が人間にとって大事なことかとか、どうすることが最も誠実な対応なのかといったことなど、まるで分っていないとしか思えない対応だった。

その結果どうなったか。相手側は次から次へと屁理屈を述べては自己弁護に終始したが、私はペンで彼らの嘘を暴き、最終的には相手が自らの意志で謝罪し、損害賠償金を払うようにし向けた。もちろん訴訟費用も払わせた。形の上では、円満に和解したことになっているが、彼らは莫大な損害賠償金を私に支払うことになったのだから実質的には彼らは完全に負けたのである。これが彼らがお金儲けという狭い価値観にしがみついた結末である。

いったん仕事を始めると、その業界における価値観に染まりやすい。しかしそれが必ずしも幸せにつながらない最たる例といえよう。一方、私が訴訟中に考えていたことは、どうすることが双方にとって最善の解決方法かということであった。よって私の希望を強要することもなく、淡々と事実を法的知識に基づいて述べただけであった。その結果が実質、完全勝利だったのである。まさにこれは学問を続けてきたおかげだと思っている。法学部で学んだことはもちろんだが、哲学部で学んだことも大いに役立った。

商売をやっている人は商売繁盛が最大の関心事だろう。しかし、その価値観はその価値観でもっていてもいいが、幸せになりたければ、もっと異なる価値観にも触れてみることが重要だと思う。そしてそれには学問が効果的だ。複数の視点を持てば、それだけバランスがとれてくると思うからだ。

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