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「知は力なり」を考察してみる

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フランシス・ベーコン「知は力なり」
(ラテン語ではscientia est potentia、英語ではknowledge is power)というのは、16、17世紀のイングランドの哲学者フランシス・ベーコンの主張に基づく格言である。

ところが、世の中には様々な考え方をする人間が存在するもので、「知は力なり」と思わない人たちもいる。

私が推測するに、そういった人たちの言い分は「知識がいくらあっても役立たせなければ何の意味もない」とか「実際に役に立たない余計な知識がありすぎると逆に邪魔になる」といったものであろう。

しかし私は、知識というものは、実際に役立つことがなくても、知ること自体がある種の力になると考えている。そしてまた、知識がありすぎて困ることはあまりないように考えている。もちろん、「知らぬが仏」という格言もあるとおり、余計なことは知らないほうがいいという場面もないわけではないが、それはむしろ例外的なことだと思うのだ。

私がそう思う理由を述べてみたい。

例えば、なんでもいいのだが、一つの例として民事訴訟法の知識を挙げてみよう。

法学部の学生なら卒業要件単位の中に含まれているから民事訴訟法を学ぶことは、卒業するために役立つだろう。しかし、一般の人が民事訴訟法を勉強して実際に役に立つことがどれほどあるだろうか。訴訟でもしない限り、実際に役に立つことはほとんどないだろう。

では、民事訴訟法の知識を身に付けることは意味のないことなのだろうか。

私はそんなことはない、勉強しておけば勉強しただけのことはあると思うのだ。

たとえその人が一生、訴訟とは無縁の人生を歩むにせよ、民事訴訟法の知識を得ていれば、潜在的な力として役立つと考えることもできる。仮に訴訟に発展しなくても、トラブルが生じたときに、訴訟を起こせばどういう結末になりそうかということを予想しやすくなるはずである。また、自力救済などという、より悪い結果に結びつく可能性の高い選択をとどまらせるのも民事訴訟法の知識が役立つはずである。そして、それはそれで一つの力(顕在化した力ではなく、潜在的な力)といっていいように思う。

この「潜在的な力」を譬え話でわかりやすく説明しよう。

地震が来なければ地震対策グッズは役に立つことはない。もし地震が一生涯来なければ一生涯役に立たない。それは至極当然のことである。地震対策グッズはまさに地震が来たときにしかその機能を果たさないからである。では、地震対策グッズを設置することには意味はないのかと問われれば、けっしてそんなことはないことはだれでもわかるだろう。たとえ結果的に地震が一生涯来なかったにせよ、わたしたちに大きな安心感というものを与えてくれるという点で、地震対策グッズは大いに役立っているのである。それが潜在的な力である。一度として機能を果たさなかったとしても、潜在的な力として大いに役立っているのである。

知識というものも、そういう側面があると思うのである。

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