学者にはさまざま分野の学者がいます。
経済学者、言語学者、物理学者、数学者、政治学者などなど。
それぞれどんなことを研究しているかは一目瞭然です。しかし、こと哲学者に関していえば、どんなことを研究する人のことかすぐには分かりません。
では、哲学者とはどういう人なのでしょうか。
ここではソクラテスの考える哲学者の特徴をご紹介しましょう。
- 哲学者たちは、生成と消滅によって動揺することなくつねに確固としてあるところの、かの真実在を開示してくれるような学問に対して、つねに積極的な情熱をもつ(『国家』(下)485B)
- ほんとうに学を愛する者は、早々に幼少のころから、あらゆる真実をできるかぎり憧れ求める者でなければならない(『国家』(下)485D)
では、哲学に専念するとどうなるでしょうか。お金持ちになれるでしょうか。哲学の先生になるとか哲学の著書を執筆するといったことでもしないかぎり、哲学がお金儲けにつながりそうにはありませんね。では地位や名誉は手にはいるでしょうか。入りそうにありませんね。ソクラテスもそうは考えてはいなかったようです。
- 哲学を志して、若いときに教養の仕上げのつもりでそれに触れたうえでに足を洗うということをせずに、必要以上に長いあいだ哲学に時を過ごした人たちは、その大多数が、よしまったくの碌でなしとまでは言わぬとしても、正常な人間からほど遠い者になってしまう。最も優秀だと思われていた人たちでさえも、あなたが賞揚するこの仕事のおかげで、国家社会に役立たない人間となってしまうことだけはたしかなのだ(『国家』(下)487D)
哲学に専念しすぎると、褒められないどころか、逆に一般の人からは「役に立たない人」のように思えるかもしれませんね。
しかし、「役に立たない」からといって哲学者を責めるのは妥当でしょうか。私はそうは思いません。この点に関し、ソクラテスは次のように述べています。
- たしかに哲学をしている最もすぐれた人々でさえ、一般大衆にとっては役に立たない人間なのだ、ともね。ただし、役に立たないことの責は、役に立てようとしない者たちにこそ問うべきであって、すぐれた人々自身に問うべきではないのだ(『国家』(下)489B)
では、哲学を志せば、いったいどんないいことがあるのでしょうか。お金儲けにはつながらず、周りの人からは「役に立たない人」と思われて、それでもなおかつ哲学を志すべきなのは、いったいどういう理由からでしょうか。ソクラテスは次のように述べています。
- 年齢が長じて、魂の発達が完成期に入りはじめたならば、こんどは、そのほうの知的訓練を強化すべきである。そして、やがて体力が衰えて、政治や兵役の義務から解放されたならば、そのときにこそはじめて、聖域に草食む羊たちのように自由の身となり、片手間の慰みごとをのぞいては他の一切を投げうって、哲学に専心しなければならない。そうしてこそ人は幸せに生きることになり、死んでのちはあの世において、自分の生きてきた生のうえに、それにふさわしい運命をつけ加えることになるだろう(『国家』(下)498B)
死んだあとのことまでは私にはわかりませんが、哲学を学べば、ものごとを明瞭に見る目が養われるという点で幸せに近づけるということは言えると実感しています。