人と話をしていて思うことは、つくづく言葉使いは難しいということだ。
同じ日本人と日本語で会話をしていても、意図したことがまったく通じないということがある。悪意などまったくないのに、悪く悪く解釈されることがある。
例えばこんなことがあった。
定期健康診断の結果、「便潜血」が陽性になっていた。私は医学に関しては素人であるからその原因は分からない。だが、検便の日にいつもと違ったことがあったので、話としてこう言ったのだ。
「実はその日、たまたま、ものすごく便が固くてですね…」
私は、便が出る際に肛門が裂けて出血した感覚があったのだと言おうとしたが、それを言う前に医師は遮ってこういった。
「いちいち個別の事情は考慮しません。便潜血で陽性が出ていたら機械的に精密検査に移ります」
私はなにも「個別の事情を考慮してください」と頼んだわけではないし、頼もうとも思っていなかった。ただ単に、そういうことがあったということを話として言っただけだ。もちろん精密検査をしないてほしいと懇願するつもりもなかった。
医師も忙しいだろうから、個別の事情を延々としゃべられたら困惑するだろう。もしかしたら過去に5分も10分も関係のない個別の事情を話し続けるおしゃべり好きな人もいたのかもしれない。たしかにそんな人がいれば聞かされる方はうんざりだろう。
しかし私は延々としゃべったのではなく、時間にしてたった3秒程度のことだ。たった3秒程度のことで、
「いちいち個別の事情は考慮しません」
と腹立ちまぎれにピシャリと言われれば、気分は良くない。
でも、反発するのも大人げないので、そのまま精密検査の事前準備の説明を受けることにした。
看護婦から精密検査の事前準備を受けた後、同意書を渡されたのだが、よく読んでみると、こんなことが書いてある。
「重篤な合併症が発症する可能性があることを了承した」
これにはビビった。私は国民健康保険以外の保険には入っていないので、万が一、合併症が起きたら、すべて私が背負うことになるのか? もしそうなったらいくらかかるのか?
不安になった私は、重篤な合併症とは何か、どれくらいの確率で起こるのか、もし起きた場合はどの程度の期間治療が必要で、どの程度の金額がかかってくるのか、といったことを看護婦に聞いた。
すると看護婦は医師から説明しますといって、診察室に連れていった。
診察室に入るや否や、私がまだ何も言わないうちに、医師はこう言った。
「こんなの(同意書)は昔は出していなかったんだよ。そもそもこんなのは要らないんだよね。こちらとしてもわざと失敗しようとしてやっているわけでもないし」
私が聞きたかったのは、重篤な合併症とは何か、どれくらいの確率で起こるのか、もし起きた場合はどの程度の期間治療が必要で、どの程度の金額がかかってくるのかといったことだ。
しかし、医師が答えたのは、同意書は昔からあったのか否か、同意書は存在意義があるかないか、医師が意図的に失敗しようとしているか否かといった点であり、私が聞きたいことの答えにはなっていなかった。
同意書のサインを渋っている私に対し医師は「それならバリウム検査にしますか」と危険性の無いバリウム検査を勧めてきた。バリウム検査だと重篤な合併症の心配はない。私はすぐさま承諾した。
さて、数日後バリウム検査を受け、その結果が出た。医師はレントゲン写真を見せながらこういった。
「特に大きな問題はないようですね」
それに対して私はこういった。別に深い意味はなく、ただ単に話として言っただけだ。
「その日、切れ痔気味だったんです」
すると医師はかなり立腹した口調でこう言った。
「だから憶測でものを言うなって。こちらはね、便潜血の結果が陽性か陰性かだけで判断するの。陽性なら精密検査をするの」
私はただ単に「切れ痔気味だった」という事実を話しただけだ。「切れ痔が便潜血の原因だった」とも言ってすらいない。素人の私に分かることは「切れ痔が便潜血の原因だったかもしれないし、原因ではなかったのかもしれないが、切れ痔気味だったという事実はあった」ということだけだ。だからもちろん「切れ痔気味だったので、それが便潜血の原因だから、もともと精密検査をする必要はなかった」と言おうとしたわけではない。
私が「その日、切れ痔気味だったんですよ」と言っても、「ああ、そうですか」と聞き流しておけばいいと思うのだが、その医師にとってはまるで自分が非難でもされたかのように聞こえてしまったのだろう。だから立腹した口調で反撃に出たのであろう。
このように日本人同士が日本語で会話をしていても、意図することが伝わらないことは往々にしてあるのである。
ああ、言葉使いって難しい。