だれもが幸福になりたいと思っていることでしょう。しかし、幸福とはいったいどんなことを言うのでしょうか。
「幸福」の定義は人それぞれです。アリストテレスも次のように述べています。
- 「幸福」とは何であるかという点になると、ひとびとの間には異論がある(『ニコマコス倫理学』1095b)
では、あなたの「幸福」の定義は何でしょうか。言い換えれば、どんなときに幸福を感じるでしょうか。
アリストテレスによれば、一般のひとびとは幸福の定義として「快楽とか富とか名誉とか」を挙げますが、一部の智者たちは「このような多くの善のほかに、すべてこれらの多くの善をして善たらしめる因であるごとき、何らか自体的な別の「善」が存在する」と考えたようです。
しかし、快楽も富も栄誉も、それ自体が究極の目的とは言えません。
快楽は動物でも求めています。快楽ばかり求める人というのは本能の奴隷になっているにすぎないとも言えます。人間が求める究極の目的としてはレベルが低すぎるというべきでしょう。
名誉を求める人は、自分が優れた人間であることを信じたいからに過ぎません。また名誉は他人に依存しているという点で、それ自体が究極の目的とは言えません。
では富はどうでしょうか。富はたしかに何かの役に立ちます。しかしそれ以外のために存在するにすぎないため、富自体が究極の目的とは言えません。
では、無条件的に究極的な目的とは何でしょうか。
アリストテレスはそれを「エウダイモン」と言いました。この「エウダイモン」は日本語では「幸福」と訳されることが多いですが、ニュアンスも含めて訳すとすれば「人間のすべての優れた特性と価値ある活動が充分にその真価を発揮するような人生」(『アリストテレス倫理学入門』)ということになります。
たとえば、野球の才能のある人であれば、その才能を最大限開花させ、プロ野球選手として活躍し、その華麗なプレーを披露し観衆の勇気を鼓舞することこそエウダイモンといえるでしょう。
快楽や名誉や富が幸福の源泉だと思い込んでそれにしがみつくと本当に大切な目的を忘れてしまいがちになります。
自分にとっての、無条件的に究極的な目的を見据えながら生きるのが「エウダイモン」に近づく最良の方法ではないでしょうか。